2015/08/15

「降伏受諾記念日」によせて

8月15日を、何故「終戦記念日」と呼ばねばならないのだろう?
事実に照らしてみれば、
1945年8月14日:ポツダム宣言受諾決定(終戦の詔書)
8月15日:玉音放送
9月2日:降伏文書調印(ミズーリ号)
1951年9月8日:講和条約調印(サンフランシスコ)
1952年4月28日:講和条約発効

であるから、どうみても「終戦」は1952年4月28日であり、1945年8月15日は単に「降伏受諾」を国民に告知した日でしかない。したがって、8月15日を記念日とするならば、「降伏受諾記念日」あるいは「敗戦確認記念日」である。

日本には、退却を「転進」と言い換えるように、失敗や敗北などの単純な事実を言い換えることにより、失態を糊塗して、責任を逃れようとする心の弱さがある。この行き着く先は、失敗や敗北から学ぶことなく、同じ失敗や敗北が繰り返されることになる。太平洋戦争を分析した『失敗の本質』によれば、まさに、旧軍は負け戦の責任者を追求することなく、温存することにより、同じ失敗を繰り返したのであり、現在政府や企業で起こる失態の度に設立される「第三者委員会」でも同じ轍を踏み続けている。

このような「心の弱さ」を基調にした現在の日本社会がとても心配である。「敗戦」や「降伏」を「終戦」と言い換えることなく、「敗戦」は「敗戦」とはっきり認め、「何故敗れたのか」をしっかり分析・反省して、「二度と負ける戦いはしない」「もしまた戦争をしなければならないときには、必ず勝てるようにする」という条件を整えることが、国の自衛上不可欠であることは云うまでもない。訳の分からない法律を作ることによって、自衛を確保することはできない。ビスマルクの言とされる「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があるが、失敗の経験を目を開いて見つめることができず、隠蔽して経験から学ぶこともできない社会は、愚者以下であり、自衛など、夢のまた夢の戯言でしかない。


8月15日は、「降伏記念日」または「敗戦記念日」と呼び、先達の愚かさを反省し、将来に備える日としよう。

2015/07/24

日経によるFT買収は、吉か凶か?

昨夜、日経が Pearson から FT グループを買うというニュースが流れた。

日経の狙いは何だろうか? FT誌の全世界の発行部数は日経の国内発行部数の約3分の1に過ぎないが、世界における影響力の大きさは比較にならない。これで、日経はFTという世界的ブランドを買ったことになるのだろうか?

今までもFT誌の論調はしばしば、日経とは異なったり対立したりして、日本政府や日本の企業制度に批判的な記事が少なくない。ここ数年の日本の主要マスコミのあり方や現在の論調からすると、このFTの独立性は恐らく許し難いものであり、遠からず編集方針の独立性は侵されるであろう。日本政府は許さないだろう(実際に、既に自民党は、FTを通じて自分達に都合の良い記事を世界に流せると期待している。http://tinyurl.com/oz7zwl9し、日経にはそれに対抗して編集方針の独立を守る気概も矜恃も期待できない。

これに関連して思い出すのは、1980年代に Murdock 氏が The Times 誌を買収した頃の英国の新聞界である。Murdock 氏が編集方針に横やりを入れるであろう事はほぼ明らかで(実際に、その後横やりを入れた)、The Times 誌が編集の独立性を失って「単なる保守系新聞」になり下がるであろうことは多くの人が予想した。そして、この期に Telegraph 誌から独立した人達が The Independent 誌を創立したのである。新しい The Independent 誌は、The Times 誌に嫌気をさした多くの優秀なスタッフを手に入れ、独立系新聞として黄金期を築いた(その後、経営不振に陥ったが)。

英米のジャーナリスト達はわが国のブン屋さん達のようにヘタレではないから、遠からず多くの優秀なスタッフはFT誌を去るであろう。私は、この時に、英字経済新聞界の再編成が起きると予想する。勿論、1980年代とは技術背景が異なるので、新しい英字経済誌は何らかの形でインターネット・ベイスとなるであろう。紙はもう使わないかも知れない。

最初の質問への私の答は、以下の通りである。
●FTにとって:凶(ブランドを毀損し、優秀なスタッフも失う)
●日経にとって:極く短期的には吉(日経の実力とは全く水準の異なる世界的なブランドを手に入れる)だが、中期的には?(FTのブランドは毀損され、損をするが、高い授業料を払って国際化を「経験」できればトントン、できなければ凶)
●Pearson にとって:大吉(Springer と日経を競わせて、事業ドメインが合わず経営状態が余り良くなかった FT をやっかい払いできた。その内に、The Economist(の半分)も売却?)
●Springer にとって:中長期的には小吉(短期的にはがっかりかも知れないが)
●世界の読者にとっては:?(FTの価値はなくなるが、新しい独立系経済メディアが立ち上がれば、大いに吉)

この記事は、ずっとここに置いておくので、数年後に私の予測がどうなっているか、是非再訪して戴きたい。私自身は、残念ながら、1970年代から親しんだピンクの新聞を読むことはなくなるであろう。

2015/06/27

日本の経営情報学は、応分の国際貢献をしているか?

以前に、経営情報学分野の国際会議に日本人参加者が少ないということを嘆いた。

現在、Japan Association for Information Systems(JPAIS、経営情報学分野では世界で最も重要な Association for Information Systems (AIS) の日本支部)と経営情報学会で、2018年に Pacific-Asia Conference on Information Systems (PACIS) を招致しようとしていて、その戦略を考えるための基礎資料として、日本人が経営情報学の国際会議にどの程度参加しているかを計量的に分析してみた。

対象は、経営情報学で最も重要な会議である、International Conference on Information Systems (ICIS) の2012 (Orlando)、2013 (Milan)、2014 (Auckland) の3年分の登録者リストからデイタを採った。これは、ICIS では世界を3地域に分割して、毎年各地域を順に廻って開催されるので、3年分を採ると、地域の片寄り(どうしても開催地の近くの参加者が増える)の効果を打ち消すことができるからである。登録者リストには、国籍(勤務地ではない)が出ているので、3年間を通して参加者のあった国について、会議当たりの平均を計算する。ICISの総参加者数は、毎回 1,200-1,400人位で、比較的安定している。

参加者(A)を決定するモデルとしては、3変数の単純なモデルを考えた。
1.そもそもの人口:P(大きい国からは、他の条件が同じならば、多数の参加者が期待できるだろう)
2.一人当たりのGDP:G/P(テーマがITの利活用であるので、豊かな国の方が興味もあり、参加者も相対的に多いであろう)

すると、A/P = ƒ(G/P) となるので、ƒが線型であれば、これは A = ƒ(G) とできる。つまり、参加者数はその国のGDPの関数となる。このモデルの妥当性を確認するために、上記で得られたデイタを当てはめて回帰分析してみよう。

全体の結果は下に提示しているが、以下を見取ることができる。
(1)このモデルの妥当性はかなり高く、全般的に参加者数の差はGDPの差によって7割程説明でき、参加者数はGDPによって説明できると99.9%以上の確度で信じられる。下に述べる事由により、もし日本を外して分析したら、GDPの説明力はもっと高くなると予想される。
(2)モデルから想定される理論値より参加者が多い国(下のグラフで赤線より上にある点)は、米国・ドイツ・香港・シンガポール・オーストラリア・ニュージーランド等であるが、総人口との比率で考えると、香港やシンガポール・ニュージーランドの「出超(赤線からの上方乖離)」が際立っている。
(3)逆に、モデルから想定される理論値よりも参加者が少ない国(下のグラフで赤線より下にある点)は、日本の他、ドイツや北欧を除く欧州諸国・中国・インド等である。しかし、中国やインドは発展段階も異なるし、そもそも人口が大きいので、人口との比率で考えると「入超(赤線からの下方乖離)」の水準は大きくない。G7等のメンバーである英国・フランス・イタリアと日本を比較すると、これらの国の人口は大体日本の半分であるから、「入超」の程度は余り大きく異ならないということもできる。しかし、アジア太平洋地域で見ると、日本は圧倒的に参加者が足りないということが見て取れる。理論値では、約100人参加せねばならないので、現状では90人程不足である。

ここで見ているのは、参加者だけで、実は発表数は見ていない(発表数のデイタを作るのが大変なため)。発表数で比較すると、日本の「入超」はずっと大きくなる。つまり、一言で云うと、「日本の経営情報学界は、十分な国際的貢献をしていない」。

さらに言えば、これは経営情報学に限ったことではなく、日本の多くの人文社会科学系の学界においても同様の傾向が見られるのである。このようなデイタも、最近文科省や財界から出てきている「大学における人文社会科学系学部の不要論(このテーマについては、近々別稿としたい)」に根拠を与えることになろうから、反発を覚える同僚も少なくないだろう。しかし、現状の改革には、まず現状を正確に認識することが不可欠である。経営情報学会とJPAISでは、PACIS 2018 招致をテコにこの状態を大幅に改善して、まずは国際貢献の均衡化を目指そうとしている。







2015/06/19

【書評】『メンバーの才能を開花させる技法』

Wiseman, Liz and Greg McKeon (2010), Multipliers, HarperCollins
関美和・訳、メンバーの才能を開花させる技法、2015、海と月社

リーダーシップは、難しい。これだけ多くの図書やセミナーが氾濫していながら一向に減る傾向が見られないということは、(評者の教えるビジネススクールを始め)これらの処方の効果がまるで上がっていない、すなわち、リーダーシップに関する図書やセミナーや学校は限りなく無意味だという証拠に他ならない。このような状況を反映して『The End of Leadership*』なんて本迄ある。

* Kellerman, B. (2012) The End of Leadership. HarperBusiness
邦訳は、『ハーバード大学特別講義 リーダーシップが滅ぶ時代』だが、内容的には『リーダーシップ教育の終焉』が適切。

本書の原著は5年前に刊行され米国アマゾンの書評でも非常に好評だった、リーダーシップの良質なハウツー本だが、この度邦訳された。ポイントは、「多くのリーダーにとって、才能に溢れたメンバーを自由に集めることができるわけでなく、実際には、現有のメンバーから如何に多くの才知と努力を引き出して組織のために貢献して貰えるか、が成否の分かれ目になる」という認識である。著者らの調査によれば、人々は、Multiplier 型リーダーの下では、Diminisher 型リーダーの下に居るときに比べて、自ら持つ能力の2倍以上を発揮しているという。だとすると、増幅型リーダーは2倍の部下を持っているのと同じ事になるではないか! 

そこで、できるだけ才能のある人々を見つけて自分の組織に引きつけ、個々人の才能に応じて各人の限界まで能力を活用して貰うようにする。課題は設定だけして、(例え自分が解を知っていても)自分は引き下がり、解決法はメンバーに考えさせる。必要に応じてサポートはするものの、課題のオーナーシップはメンバーに渡して、責任も持たせる、等々、Multiplier 型リーダーになるには下準備と自制心が結構大変である。


本書は、実は、組織のヴィジョンやミッションは既にリーダーが自身で考え抜いていて、それを実行する戦略やその実施に組織メンバーの能力をフルに活用しようとする段階のノウハウ集なのである(その意味では人心操作に近づいている)。だから、本書の教えが実際に効果を発揮するかどうかは、ビジョンや目的についての熟考やメンバー各人の能力の棚卸など、リーダーが事前にどれだけ下準備をしておくかに掛かっている。これは、良い学校教師がする念入りな授業の準備と同様で、つまるところ、リーダーシップとは(もともと各人が持っている才能を開花させるという意味での)教育でもあるのだ。

2015/06/07

Apple at its Zenith?

Apple is a really great firm.  I have recently hit an article to show how foresightful the firm was.  In this article, we can see what Apple was conceiving in 80s: laptops, tablets, and even a wrist telephone!

http://www.theverge.com/2014/5/28/5757414/apple-prototype-tablets-phones-laptops-from-the-80s-photos

As a revolutionarily innovative and great company, the firm's market cap is over $740B at the time of writing this.

http://finance.yahoo.com/q?s=AAPL

There are pundits who predict beyond $750B, such as this.

http://www.forbes.com/sites/laurengensler/2015/02/19/5-reasons-why-apples-750-billion-market-cap-could-get-even-bigger/

But I cannot help feeling unease.

To me, Apple's strength as a business has been its relentless focus.  Despite its size, the firm's product line has been extremely narrow (just, a few models of gadgets and an ecosystem of software and contents).  They have been selling their goods/services without regional adjustments (except for currency and tax-related adjustment) as marketing or strategic gurus would preach.  This focus has had a huge impact on their learning curve, the economies of scale, operational simplicity (from manufacturing, logistics, shops, services to call centres) and the brand sharpness.

Now they seem to be diversifying into other (albeit related) products, such as watch and car.  This may well be the reflection of mounting pressure from the capital market for growth.

But I cannot help feeling that Apple is to throw away its core strength, the focus.

If you are to grow further without losing focus, the only logical way seems to split the firm into two (or more) focused firms.  If you try to keep all new products and services lines under one umbrella, you would become like, you know what, a Japanese electric/electronic mediocre or Korean chaebol.

I have been a Mac user since 1987 with a Macintosh Plus.  I was literally shocked and thrilled with its futuristic ideas, such as its file handling and network capabilities, which were (and still are) by far more advanced than its competitors in the market.  I have been a great fan of Apple since then.

So, I cannot help feeling very sad …

2015/04/05

規模と複雑性の罠

巨大なグロウバル銀行の収益性が低下して、悲惨な状態になっているという(The Economist、2015年3月7日号)。経営の複雑性、地元銀行からの競争圧力、規制強化の3つの原因が挙げられている。

第1の原因は、複雑性であるが、巨大で複雑な組織というものはそのマネジメントにとてもコスト(経営者のアテンションと時間とエネルギー)が掛かるのである。企業などでは余り議論されていないようだが、しばしば、この複雑性に帰因する問題は人智の限界を超えることになりかねず、巨大化による規模の経済を打ち消してしまう。

ソニーの不振の原因の1つもここにあると考えられる。家電と半導体とデヴァイスとエンターテインメントとネットワークと金融を同じ屋根の下に入れるのは、スーパーマンのような経営者をしてもとても困難であろう。古くは経営学者の Penrose も、マネジメントの複雑さが企業成長の制約になることを指摘している。

逆にアップルの好調の原因の1つは、同社の製品ラインおよび事業領域が極めて限られていることにあると考えられる(しかし、今後もこの優位性が維持されるかどうかは、経営者次第。既に、遠くに暗雲が見える)。マーケティングコンサルタントの Reis もフォウカスの重要性を繰り返し指摘しているし、筆者の提唱する組織IQにおいても「組織フォウカス」は5つの原則の内の1つとなっている。

製品ラインや事業分野がフォウカスされていることにより、意思決定の複雑さが減少され、意思決定に関わる情報処理の負荷が小さくなることの利益は計り知れない。企業の多角化や国際化において必ずしも陽表的に評価・議論されていない側面であり、注意が肝要である。

組織マネジメントにおいては(も?)、シンプルイズベストである。

2015/03/29

組織の終わり方(の覚悟)

米国の銀行規制当局(Federal Deposit Insurance Corporation)は、影響力の大きな銀行に対して、一定の条件を満たさなくなったときにどのように銀行を清算するのか、そのやり方を示すように求めている。

http://www.economist.com/news/finance-and-economics/21647312-regulators-desire-make-banks-easy-kill-determining-how-they

つまり「組織の終わり方を自分で考えなさい」ということである。巨大銀行の場合には、これはシステミックリスクを避けるあるいは軽減する観点から重要なのであるが、その他の組織にとってみても、これは素晴らしいことではないかと思う。

特に日本の組織は、永遠に続くこと自体があたかも良いことであるかのごとくに思い込まされている節がある。Barnard を引用するまでもなく、そもそも組織とは目的があって作られるべきものであるので、その目的を達成したならば解散して、それまで使用していた資産やお金や人材などを他の目的のために解放ことするが、社会全体から見れば望ましい姿である。であるから、組織の目的は、それが達成されたのかどうかが明確にわかるような形に定義すべきであり、「世の中を良くする」というような、達成できたかどうか分からないようなぼんやりした定義はよろしくない。世の中には、ただ存在することだけが自己目的化して、社会的に積極的な意義を果たしていないと思われるゾンビ組織があまりにも多すぎる。目的を達成したらば、直ちに組織は解散または清算すべきである。たとえ同窓会のように継続して存続することが前提の組織であっても、例えば「会員の満足度」などを定量的に測定して、目的が十分に達成されていない時には、解散して出直すなり、役員を入れ換えるなりすべきであろう。

組織を作るときには、「何が達成されたならば解散するのか」、そして「その時にどのように清算するか」、サンセット条項のようなことを定款に含めることが望ましいといえよう。財団や社団の場合には、解散時の財産の処分の仕方を定款で定めるようになっているが、これでは「どういう時に解散するのか」は決められていない。 企業は、その目的を明確に定義し、目的達成時には解散するよう定款に定め、その時の清算法も規定しておくことが社会の効率化のためには望ましいと言えよう。

2015/03/27

アナリティックスと保険の将来

ビックデータとアナリティックスの普及により保険対象のリスクをより正確に見積もることができるようになると保険産業はどうなるであろうか?

そもそも保険とは、同じリスクカテゴリの人々をまとめて確率的に起こる事象に対して集団的に保証するシステムである。以前は、保険対象のリスク見積が難しかったので、どんぶりセグメントで十把一絡げにしてきたが、リスクを細かくセグメンテーションができるようになってみたら、実は大きいリスクを抱えた保険対象と小さいリスクしか持ってない保険対象が同じプールに入っていたことがわかったとする。小さいリスクの保険対象に、大きいリスクの保険対象と同じ保険料を支払うことは合理的ではないことは明らかである。そこで小さいリスクの保険対象を持っている人たちはそのセグメントだけで安い保険料率を決めたいと望むのは当然である。しかし、セグメントの細分化を可能とする情報に基づいて合理的に行動すると、社会全体としてはどのようなことが起きるだろうか?

疾病保険では、遺伝子などの情報により一人ひとりのリスクファクターが明らかになり、同じリスクのグループごとに異なった保険料率を適用することになろう。こうなると、小さいリスクの人たちのセグメントでは正常な保険が成立しうるが、大きいリスクをもつ人たちのセグメントでは保険料率が高くなりすぎて、保険に入らない(入れない)人も出てくるであろう。

自動車保険では、運転者の性格や事故の履歴、飲酒癖などは非常に重要なリスクファクターとなろう。

http://www.economist.com/news/finance-and-economics/21646260-data-and-technology-are-starting-up-end-insurance-business-risk-and-reward
には、運転習慣(どの位急ブレイキを踏むか、など)を測定するデヴァイスをクルマに設置して、これに応じて保険料率を変動させる話が出てくる。

安全運転をする人のセグメントと危険な運転をする人のセグメントでは、当然、保険料率は異なってくるであろう。安全運転をする人のセグメントから中位のリスクの人のセグメントでは正常な保険が成立しうるが、大きな事故リスクを持ってる人のセグメントでは、おそらく保険料率が高くなりすぎて、保険は成立しなくなると思われる。つまり、このセグメントでは保険料率が高いので多くの人は保険に入らず、その結果非常に危険な人たちが任意保険なし(自賠責のみ)で車を運転し廻ることになる。こうなると、非常に危険な運転をする人のセグメントについては法律で運転を禁止するか、普通の人々は災害保険に入るしか手の打ちようがなくなるかもしれない。

生命保険については、健康に関する遺伝情報とそれからその人の危険な行動するかどうかの情報からリスクファクターを割り出すことになる。この場合も、リスクファクターが小さいセグメントでは正常の保険が成り立つが、リスクの大きい人々のセグメントでは保険は成り立たなくなる。

いずれの場合においても、リスクの見積もりが正確で細くなるにつれ、そもそもの保険の概念が変わらざるを得ない。従来からの、ドンブリセグメントによる保険は成り立たなくなるであろう。米国のオバマケアでも議論されたが、リスクファクターの大きい人に高い保険料を適用できない保険会社が、リスクによるセグメントごとに細かく保険料を設定できる保険会社に対する競争に負けるのは必定である。しかし、リスクプロファイルの大きな人を保険から排除するとなると倫理的な問題もある。リスクファクターの大きな保険対象は政府が担うしかなくなるかもしれない。

現在私も、将来の明確な見通しを持っているわけではないが、保険産業は大きな構造変革に見舞われることはまず間違いなかろう。情報技術を活用した革新的な解決法をもたらす企業には大きなチャンスが期待できる。ワクワクする時代である。

2015/01/11

企業の首都圏集中と鉄道網

 「わが国は大企業が首都に集中しすぎている」という意見があるが、現状では国際的に見て必ずしもそうは言えない。むしろ、これから集中化が進むのである。

日本の大企業を代表する日経225の企業リストを見ると、本社が首都圏にあるものは7-8割程度であろうか。これに対して、英国の大企業を代表するFT100やフランスの大企業を代表するCAC40のリストを見ると、その大半が首都に所在する。一方、アメリカやドイツの大企業の集中度はかなり低い(アメリカでは多数の大企業の登記上の本社はデラウェア州にあるが、これは税法上の理由によるものであり、実質的な本社機能はあちらこちらにある)。 この違いは、もちろん経済の現状だけではなく、それぞれの国の歴史的な事情も反映している。イギリスやフランスは昔から一極集中型の政治経済であったし、アメリカやドイツは今でも連邦制である(ドイツは1871年のプロイセンによる統一以前は、小国の集まりであった)。 日本は、信長・秀吉によって統一されている。

この事情は、各国の鉄道網を見てみると、目で確認することができる。アメリカやドイツは、網状の鉄道ネットワークが発達しているのに対して、イギリスやフランスは首都を中心に放射状に鉄道網が発達している。イギリスやフランスでは、隣の町に移動するときにも、鉄道で直接向かうよりは、一旦ロンドンやパリに出たほうが速いことが多い。これらの国では地方から地方へ移動するのに、自動車やコウチ(バス)が多用される所以である。 ところが日本の鉄道網は、東京や大阪等の拠点都市をハブとする hub and spokes 型のネットワークとなっている。 つまり、鉄道網の形が「アメリカやドイツは分散型、イギリスやフランスは集中型、日本はそれらの中間型という企業配置」と、見事に相関しているのである。

この事実から予想される事は、今後わが国で整備新幹線などによって鉄道網が整備されていくと、企業の首都集中化はますます進むだろうということである。EUでも見られているように、資本や労働の移動障壁が低くなると、域内は均一化するのではなく、逆に域内の差異が大きくなっていく(「経済学101」で習った、リカードの「比較優位性」である)。つまり、経済の首都集中化と地方の経済的な過疎化が一層進むのである。これにより、地方ではその地に特化した産業以外の一般的な産業はなくなっていく。一方、首都圏ではそこに居ることの経済的価値が高まると共に生活コストも高くなっていくために、引退した人などには住みにくくなっていくと思われる。したがって「首都圏は経済活動、地方は居住や観光およびその地に特化した産業」を主とするという棲み分けになっていくであろう。イケダハヤト氏もブログ(http://www.ikedahayato.com)に高知の住みやすさを書いているが、地方都市では、居住や観光を支えるためのサービス産業等も発達するであろうし、コンパクトで生活費も安いことにより、退職後の老人などにも住みやすくなると思われる。もし本気で地方に全般的な産業を復興させて自己完結経済圏に戻したいのならば、交通や移動を不便にして日本を分断するしかない。

2015/01/04

「創造的人材の育成」について

過日、野生のシジュウカラの集団において知識が伝承され、また、個体は集団の知識に同調(文化を伝承するという実験結果を紹介した。

実験では、森の中に右からも左からも開けられるえさ箱を複数置いておくと、シジュウカラは、集団毎に右または左からえさ箱を開けるやり方を共有する(「文化」と呼ばれる)が、このことは他の野生動物の集団でも観察されていて、これ自体は新しい知見ではない。驚くべきは、例えば、右からえさ箱を開ける集団にいる個体を、左からえさ箱を開ける集団に入れると、この個体は新しい集団に同調して、左からえさ箱を開けるという行動を採るようになる、ということである。つまり、シジュウカラは集団内で同調行動を採っているのである。

集団の生存戦略として考えると、少数の探索的(創造的)シジュウカラの個体がえさ箱を調べて開け方を発見するのだが、集団内の多数の個体は、改めて新しいえさ箱の開け方を探索することなく、他の個体により発見された開け方を模倣して、このやり方が集団内で共有される。もし、集団が同調者(模倣者)のみで構成されていれば、えさ箱を開ける方法は発見されないままとなる。他方、もし集団が探索的(創造的)個体ばかりで構成されていれて他の個体から学ぶことがなければ、各個体がそれぞれ探索行為を通じてえさ箱の開け方を発見することになる。この二つの極端なケイスはいずれも集団生存のためには効率的でなく、一定割合の個体が探索的(創造的)で新しいやり方を発見し、多数の個体がこれら探索的(創造的)個体の発見を模倣することが、集団の生存戦略としては効率的である。恐らく、進化過程を通じて、集団において最適な探索的(創造的)個体の比率を持つ種が、生き残ってきたと考えられる。


世の中は、ビジネスでも教育でも「創造的人材を育成する」というテーマが流行であるが、人類が地球でこれだけ生存し、多種を支配してきたことを考えると、人類における探索的(創造的)人材の現在の自然の比率は、恐らく生存戦略として効率的なのだと考えられる。勿論、各産業や社会の場面に応じて、最適な探索的(創造的)人材の比率は異なるであろう。とても、探索的(創造的)な外科医に手術をして貰いたいと思う患者は多くないであろうし、区役所の窓口の担当者がとても探索的(創造的)で、案件毎に異なる処理をされては困るであろう。とても探索的(創造的)なパイロットが操縦する飛行機は、事故も多いであろう。また、グーグルであればより大きな探索的(創造的)人材比率が最適であろうし、安定的な業界であればより小さな探索的(創造的)人材比率が最適であろう。いずれにしろ、万が一、国民の全員はおろか、大多数が創造的人材であるような社会になれば、社会全体の効率が極めて悪くなり、社会そのものの生存に関わるであろう。The Economist 誌も「創造性を強調する職場は問題が多い」としているし、J.G. March も exploration と exploitation とのバランスを強調したが、無闇に創造的人材を育成することが、社会・組織・集団の発展と生存に寄与するという保証は全くないのである。